マスコミ締め出し、選手との衝突…新庄“ビッグボス“は監督業のイメージを変えられるか

新庄剛志_20211110

プロ野球をぶっ壊すか“新庄劇場”

10年以上も球界から無縁のところにいてプロ野球の監督に就いたのは新庄剛志が初めてではないか。それも「ビッグボスと呼んでくれ」とぶち上げたのだから驚く。

「優勝なんて狙わない」
「投手3人、野手4人のタレントを作る」
「球場を満員にする」

日本ハムの新監督となった新庄の3大公約である。配った名刺には、BIGBOSSとある。監督とは書いてない。これまで新監督は必ず、優勝を目指して、と宣言したが、まるで違った。

堅苦しいプロ野球の世界を変えちゃおう、という意思が明確である。自民党をぶっ壊す、と言って政権まで手にした小泉純一郎を思い出す強烈な日本球界復帰劇だった。

沖縄の秋季練習では、そのトレーナースタイルは赤色でグラウンドに入り、途中で黒色に変えた。こんな監督は初めてである。

「困っちゃうのは他球団の監督。これからはなんでも新庄と比較されてしまうから。フロントやファンから、新庄に負けずに派手なパフォーマンスをやれ、と注文をつけられるかもしれない。来年は試合どころじゃないんじゃないか」

評論家の先生方の感想である。間違いなく、そうなる。

マスコミを敵に回した“哲のカーテン”

プロ野球の監督は12人。大臣の数より少ない。超エリートなのである。けれども勝負のために、さまざまなエピソードが生まれた。

巨人V9監督の川上哲治は、常勝チームを作るのに非情に徹したことで知られた。1961年、監督に就くと、報道陣とぶつかった。宮崎キャンプで報道規制をしたのである。報道陣を三塁側に押し込め、その前に柵を作った。

『哲のカーテン』とマスコミは報じた。ソ連のスターリンの「鉄のカーテン」を文字ったもので、今なら流行語大賞ものの命名だった。

「報道陣がグラウンドの中を歩き回ると練習に集中できないし、打球が当たってケガをしたら困る」

川上の説明である。確かにその通りなのだが、当時は自由を規制されたとあって報道陣は川上とぶつかり、もめにもめた。川上の評判が良くなかったのはここが起因といっていい。

その批判を川上は力尽くで退治した。新監督で優勝し、65年から9連覇を達成して答えを出したからである。今度は「管理野球」とマスコミは報じ、一矢を報いた。

選手と死闘を演じた“信任投票”

その川上と同じ1920年(大正9年)生まれの西本幸雄は、阪急監督時代にこれも裏面史に残る監督信任事件を起こしている。

66年秋、練習ぶりに業を煮やした西本は、選手45人に向かって「オレと一緒にやるかどうか」と信任投票を断行した。むろん、史上初。結果は信任34、不信任7、白票4。

「不信任が7人もいるのなら辞める」

西本の決意に球団は揺れた。オーナーが「阪急の監督は西本しかいない」の一言で留任。翌年、球団を初優勝に導く。

この西本、選手育成では抜群の力量を持っていた。熱血指導である。1065盗塁の福本豊、投手としてただ一人3年連続MVPの山田久志はその代表である。

ところが勝負運はなかった。大毎オリオンズ監督時代にはリーグ優勝しながら日本シリーズで負けてオーナーとぶつかり退団。近鉄バファローズ時代は、広島とのやはり日本シリーズで、逆転サヨナラ優勝のチャンスでスクイズ失敗のいわゆる「江夏(豊)の21球」で敗戦。川上の巨人とは日本一を5度争って全敗。日本シリーズは8度出てすべて敗戦で「悲運の将」と呼ばれた。

この西本の後を継いだ阪急監督の上田利治は、78年のヤクルトとの日本シリーズで、ホームランを巡って1時間19分も抗議。コミッショナーが登場してやっと再開というトラブルを演じた。

相手投手を殴打、契約途中でクビ、居眠り

監督は勝負どころで本質が出る。

「親分」こと大沢啓二は日本ハム監督時代の76年、死球に怒ってマウンドに突進すると、相手投手をポカリ。「べらんめえ監督」の本領発揮だった。辞めるときはグラウンドに土下座して「すまねえ、許してくんな」と。まるで時代劇だった。

ピンチでベンチから姿を消したり、チャンスで居眠りをしてサインを出せなかったり、自軍の投手が完全試合を達成したのに試合に欠場だったという監督もいた。

3年契約をしながら不成績のため、2年目のシーズンが終了した時点で「解任します」と通告された単身赴任の監督は、フロントにも見放され、最後は周りにだれもおらず、文字通りの独りぼっちだった。

メジャーリーグでもそんなエピソードはごろごろある。レオ・ドローチャーというドジャース監督は、47年のシーズン前、ギャンブル疑惑で出場停止。日本なら間違いなくクビなのだが、翌48年にカムバック。それどころかシーズン途中にライバルのジャイアンツ監督に移った。このあたりは日本とは比べものにならないくらいスケールが大きい。2000勝を挙げた実績が成せる技だった。このドローチャー、76年に太平洋の監督に決まったが、体調不良を理由に取り消しとなった。

川上は勝ちすぎて批判が強まり、妻が体調を崩した。西本は監督業を「一晩で白髪になる職業」と言った。

そんな仕事を新庄がどう変えて「令和の監督像」を作り上げるか。新庄劇場の開演にメディアも乗っている。寄ってらっしゃい、見てらっしゃい、と。

「ビッグボスがビッグマウスで終わらなければいいがね」との声もあることを付け加えておく。


著者プロフィール

菅谷 齊(すがや・ひとし)1943年、東京・港区生まれ、法大卒。共同通信で巨人、阪神、大リーグなどを担当。黒い霧事件、長嶋茂雄監督解任、江川卓巨人入団をはじめ、金田正一の400勝、王貞治の756本塁打、江夏豊のオールスター戦9連続三振などを取材。1984年ロサンゼルス五輪特派員。スポーツデータ部長、編集委員。野球殿堂選考代表幹事を務め、三井ゴールデングラブ賞設立に尽力。大沢啓二理事長時代の社団法人・全国野球振興会(プロ野球OBクラブ)事務局長。ビジネススクールのマスコミ講師などを歴任。法政二高が甲子園夏春連覇した時の野球部員。同期に元巨人の柴田勲、後輩に日本人初の大リーガー村上雅則ら。現在は共同通信社友、東京運動記者クラブ会友、日本記者クラブ会員、東京プロ野球記者OBクラブ会長。

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