ドラフト指名外からバスケットボール殿堂に上り詰めたベン・ウォレス

Ben Wallace Detroit Pistons

1984年のマイケル・ジョーダンや2003年のレブロン・ジェームズ、NBA史上最高となり得るドラフトが他にあったことはすぐに思い浮かぶ。だが、4月に『NBA TV』で報じられ、その後も定期的に放映されているドキュメンタリーは、1996年6月26日(日本時間27日)に扉を開けたタレントについて説得力のある議論となっている。

最初の6位までに指名されたのは、アレン・アイバーソン、マーカス・キャンビー、シャリーフ・アブドゥル・ラヒーム、ステフォン・マーブリー、レイ・アレン、アントワン・ウォーカー。ほかにもいた。13位にはコービー・ブライアント。15位にはスティーブ・ナッシュだ。

ドキュメンタリーの中で、殿堂入りしているアイザイア・トーマスは、「NBAの歴史でも有数の文化的変化、バスケットボールの変化」と表した。ドラフトの夜に夢をかなえた選手のうち、アイバーソン、アレン、ブライアント、ナッシュの4名は、トーマス同様に殿堂入りを果たしている。

ベン・ウォーレスは、中継が終わるとテレビを消し、仕事に戻った。当時バージニア・ユニオン大学4年生だった彼は、準備はしていたが呼ばれなかった。ウォーレスは「最初のショックを乗り越え、自分に賭けなかった代償をみんなに払わさなければと思うと、普段の仕事に戻るものだ」と話す。

「だからその夜、自分はジムに向かった」。

「みんなに『逃してしまったな』と分からせるのが自分のミッションだった。そして諦めるまで、ドラフトで呼ばれた名前全員に合わせてベンチプレスを繰り返した。誰かは関係ない。自分にとってはただモチベーションだった。壁を背にしての、自分と世界の勝負だった」。

そのウォーレスは、ドラフト外からNBA入りした中で初めての殿堂入り選手となる。ポール・ピアース、クリス・ボッシュ、クリス・ウェバー、トニー・クーコッチ、リック・アデルマン・ヘッドコーチ、レジェンドのビル・ラッセルらとともに、2021年に殿堂入りを果たすのだ。

ウォーレスの選出は、リバウンド、ブロック、守備、それまでに手にした賞、そして何より、2000年代の偉大なるデトロイト・ピストンズにもたらしたリーダーシップや原動力と、彼の仕事に対する敬意の表れだ。

そしてまた、有能な29球団の関係者が、スターターやオールスターというだけでなく、殿堂入りする選手のことを完全に逃してしまった証ともなる。

先日の『NBA.com』のインタビューで、ウォーレスは「ドラフトで指名された選手たちに対して個人的なことはなかった。でも、それが自分の仕事のやり方だった」と話した。

「みんながどこに行ったかを見た。トップの選手たちがどういうチームに行くかを見た。そしてリーグ入りしてから引退するまで、自分は彼らから目を離さなかった。ずっと彼らのことを見てきた」。

ウォーレスは見事に続けた。16シーズンで1万482リバウンドは、ドラフトで指名された誰よりも上回った。アイバーソンよりも出場試合は多く、オニール以上のブロック、ナッシュ以上のスティールを記録した。

2002年、ウォーレスはカリーム・アブドゥル・ジャバー、ビル・ウォルトン、アキーム・オラジュワンと並び、同一シーズンにリバウンド王とブロック王に輝いた選手となった(のちにドワイト・ハワードも達成)。最優秀守備選手賞を4度受賞したのは、彼とディケンベ・ムトンボだけだ。そしてオールスター選出は4回。ドラフト外選手として初めてオールスターで先発出場した。オールNBAに5回、オールディフェンシブチームには6回選ばれている。

1試合平均のフィールドゴール試投は5本で平均5.7得点、フリースロー成功率はわずか41.4%だが、たいしたことではなかった。

2004年にウォーレスとチームメイトを優勝に導き、殿堂入りセレモニーでウォーレスのプレゼンターを努める元ピストンズのヘッドコーチであるラリー・ブラウンは、「ベンのような人が殿堂入りするのはとてもうれしい」と話した。

「彼は自分の才能を最大限に発揮し、しっかりとバスケットボールに取り組んで、すべてのプレイで守備をし、あらゆるリバウンドを拾おうとすれば、チームに貢献し、影響を及ぼすことができるということを人々に示した選手だ」

「攻撃のプレイを集めたハイライトしか見ない若者たちにとって、偉大な模範である」。

ウォーレスのエージェントだったアーン・テレムによれば、35年にわたるキャリアにおいて、ウォーレスほど努力し、プロフェッショナルだったクライアントはいないという。現在ピストンズのバイスチェアマンであるテレムは、ウォーレスが自身の仕事に対する姿勢をこのように説明したと明かす。

「決して何も手にすることのなかった人でも、ハードワークと断固たる決意があれば、何かを与えることができる。だから、自分はこうしているんだ」。

2004年のファイナルで、ピストンズは当時3連覇中だったブライアントやシャキール・オニールのロサンゼルス・レイカーズに第5戦で勝利した。シーズン中はフィールドゴール成功率45.4%の平均98.2得点だったレイカーズを、FG成功率41.6%の81.8得点に抑えている。優勝を決めた第5戦では、20得点、8リバウンドのオニールに対し、ウォーレスは18得点、22リバウンドを記録した。

ブラウンは「我々は決してシャックにダブルチームや『ハック・ア・シャック』をしなかった」と話す。

「実際のベンは6フィート8インチ(約203センチ)で、シャックは7フィート(約213センチ)以上だ。それに当時は300ポンド(約136キロ)以上だった。だが、すべてのプレイでベンは彼に苦しめた。常に彼を守ろうとした。シャックは偉大だったが、第3クォーターや第4Qは前半のようではなかったよ。ベンのエネルギーと、常に彼がハードなプレイをしたことによるんだ」

「彼が得点をあげることは分かっていた。でも、彼は頑張ってそれを手に入れなければいけなかったんだ。すべてのポゼッションで少なくともシャックにチャレンジするというベンの力で、我々はほかの選手たちをよりうまく守ることができたのかもしれない」。

ピストンズは2005年もファイナルに進出したが、サンアントニオ・スパーズに第7戦で敗れ、その後ブラウンはニューヨーク・ニックスに去った。代わってピストンズを率いたのは、フリップ・サウンダース。攻撃的な指揮官で、その後の3シーズンで176勝をあげたが、マイアミ・ヒート、クリーブランド・キャバリアーズ、ボストン・セルティックスと、毎年イースタン・カンファレンス・ファイナルで敗れた。

コートで適切に評価されていないと感じたウォーレスは、2006年にピストンズを退団。4年6000万ドル(約65億9000万円)という倍額のサラリーでシカゴ・ブルズと契約した。2007年にブルズ、2008年と09年はキャバリアーズでプレイオフの合計37試合に出場したが、リングには至らず。その後ピストンズに戻ったウォーレスは、3シーズンで66試合に出場してからキャリアを終えた。

現在、リモートコントロールモデルのレーシングカーを販売するアメリカの「Wallace Motorsports」のオーナーを務めるウォーレスは、自身のアグレッシブな守備が、現代のバスケットボールでも15~20年前のように通用すると信じている。ウォーレスは「もちろんだ」と話した。

「シンプルに、誰のチームでも、私が伝統的なセンターになることはなかったからね。センターとしてプレイしたが、試合のたびに自分の2倍近いサイズの選手を守る必要がなければ、自由に動き回り、より多くをすることができた。ペリメーターで守ることもできたんだ」。

25年前に望まれず、それが不合理で間違えていたと示した人なら、当然だ。

ウォーレスは「あの年のドラフト組がさらに向上したのは、そういうことだと思う」と話した。

「本当に多くの優れた選手がいたから、結局は誰かしらを見逃さなければいけなかったのさ」。

原文:Ben Wallace went from undrafted to Hall of Fame by Steve Aschburner/NBA.com(抄訳)


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