4試合で13四球、封じられたショータイムのバット
大谷のホームランペースが鈍ったのは9月に入ってから。12日、ブルージェイズのウラジーミル・ゲレーロ・ジュニアが44号を放って大谷と並び、翌日に45号。さらにロイヤルズのサルバドール・ペレスが14日から3本塁打してゲレーロに追いついた。
21日、大谷は45号。この時点で二人に1本差と迫ったのだが、ここから魔の四球が大谷を襲った。22日からのアストロズ、マリナーズとの4試合で4個、3個、4個、2個と計13四球(敬遠含む)。エンゼルスファンのブーイングなどお構いなしの究極の戦法を使い、バットを振らせなかった。
その後、ゲレーロとペレスは48本でタイトルを分け合い、ペレスは打点王も手にした。大谷は最終戦の10月3日、46号と100打点をマークしてバットを置いたが、集中的な四球攻めに抗しきれなかった。
「タイトル争いは楽しかったし、いい経験になった」「(四球は)危険球を投げられるよりよかった」と大谷。刺激を与えないコメントを残したが、タイトルうんぬんより勝負をして欲しかった、と思っていることだろう。最終盤は打球が上がらなかったし、外野飛球に伸びを欠いた。ホームラン狙いの力みが見てとれた。疲労も重なったとはいえ、スイングを封じられたショータイムの舞台は休演状態になった。
ファン無視のドラマを演出してきた敬遠の4ボール
四球はルールで認められている。ストライクが入らない普通の四球と、打たせないための敬遠の四球がある。この無条件出塁は両軍を天国と地獄に分断する。だから強打者が敬遠策に対し、抵抗を行動で見せたことがあった。
代表的なのは1985年、阪急の主砲ダレル・スペンサーに対しての嫌がらせ。南海の野村克也と本塁打で争っており、終盤の10月に両チームが直接対決(京都・西京極球場)となった。7回裏、それまで2度敬遠されていたスペンサーは、打席に入るとバットを逆さに持って構えた。これが“逆さバット事件”として歴史に残る。野村がタイトルを取って終わったが、後味の悪さが残った。
巨人の長嶋茂雄もやった。バットを持たずに打席に立ち、悔しさを表した。全盛時代はしょっちゅう敬遠されており、4度もこの抵抗を示している。長嶋の打撃を見るため入場料を払ったファンが多かったから、スタンドの罵声と落胆は大変なものだった。
敬遠が直接タイトルに関係した出来事もあった。
その一つが82年の首位打者争いである。打率3割5分1厘で1位の大洋・長崎啓二と3割5分1毛で2位の中日の田尾安志。シーズン最終戦の直接対決で、中日は勝てば優勝(負ければ巨人優勝)という緊張した一戦だった。長崎は欠場でベンチに。その目の前で1番を打った田尾は5打席敬遠に遭い、わざとスイングして抗議したが、これは騒動につながるとしてコーチがなだめる一コマもあった。両者の差は9毛。結局「優勝は中日」「タイトルは横浜」で決着した。
それから2年後の84年、本塁打争いが絡んだ。阪神の掛布雅之、中日の宇野勝。37本で並び、シーズン最後の2試合で直接対決(ナゴヤ球場)となった。両選手とも先発出場したが、ともに全打席四球で、タイトルを分け合った。
その観客無視の代償は、満塁での四球などもあってファンが怒り、コミッショナーから厳重注意を受けた中日の山内一弘、阪神の安藤統男の両監督がファンへ謝罪する醜態に追い込まれた。
いずれもファンあってのプロ野球の看板を自ら汚した出来事だった。駄作のドラマとして記憶に残る。
敬遠はスーパースターのプライドを破壊する
ヤンキースの4番を打ち、ワールドシリーズでMVPになった松井秀喜。石川・星陵高時代、甲子園での5敬遠がある。バットを振らせない作戦が成功して勝った明徳義塾高の監督は「高校生の中にプロ野球選手が一人いる。だから、だ」というのがその理由。敬遠は一本勝負では特に有効となることを示した一戦でもあった。
松井はそれから大スターへの道を歩んだが、一方でそれまで築いた実績が粉々にされるスーパースターもいた。その松井と同時に国民栄誉賞を受賞した長嶋である。
73年8月、巨人-ヤクルトの試合。4番の王貞治は5打席すべて敬遠で出塁。勝負されたのは5番を打っていた長嶋で、チャンスにほとんど打てず敗戦。すでに晩年とはいえ、天下のスーパースターが恥をかいた1日だった。
この作戦を指揮した監督は三原脩。あの“魔術師”の異名を取った球界一の知恵者だった。どんな相手にも勝負になると非情な手を打つ三原だからこそできた策だった。ミスターが「最大の屈辱に遭った日」と伝えられている。
大物といわれる外国人選手の攻略法に四球を使う。多くの外国人は打って稼ぐという意識が強いので、バットを振るチャンスを奪われ、たびたび歩かされるとストレスが溜まり、ボール球を無理に振ってくる。この罠にはまって成績を残せず帰国した大物が何人もいた。
悪魔退治の秘訣、失投を逃さず外野席へ放り込め
大谷は来年、開幕から四球作戦に襲われ、体に近い投球も格段に増えるだろう。“恐ろしい打者”と認められた、と思うからである。打たれた投手はファーム落ち、クビのリスクを負うから、当然勝負を避ける確率は多くなる。
悪魔のような四球に勝った選手の代表が大リーガーも認める王である。通算1万1866打席で2390四球はおよそ20%。うち敬遠は427。シーズン最多四球は連続18度、うち16年が100以上。同じく敬遠は連続16年を含む17度を数え、45と41の年があった。
王は徹底的に勝負を避けられても868本塁打を放ち、タイトルは15度も獲得。成功した秘訣は、打てる球を確実にとらえる技術-にあった。それは生涯の2786安打、打率3割1厘に表れている。
大谷が学ぶことは、日米の違いや王の数字ではなく、投手の失投を逃さない確実なスイングと集中力-である。静かな“悪魔の四球”に勝つにはそれしかない。
「略歴」
菅谷 齊(すがや・ひとし)1943年、東京・港区生まれ、法大卒。共同通信で巨人、阪神、大リーグなどを担当。黒い霧事件、長嶋茂雄監督解任、江川卓巨人入団をはじめ、金田正一の400勝、王貞治の756本塁打、江夏豊のオールスター戦9連続三振などを取材。1984年ロサンゼルス五輪特派員。スポーツデータ部長、編集委員。野球殿堂選考代表幹事を務め、三井ゴールデングラブ賞設立に尽力。大沢啓二理事長時代の社団法人・全国野球振興会(プロ野球OBクラブ)事務局長。ビジネススクールのマスコミ講師などを歴任。法政二高が甲子園夏春連覇した時の野球部員。同期に元巨人の柴田勲、後輩に日本人初の大リーガー村上雅則ら。現在は共同通信社友、東京運動記者クラブ会友、日本記者クラブ会員、東京プロ野球記者OBクラブ会長。