ヤクルト中村悠平(ゆうへい)捕手=「2」→「27」
オリックス吉田正尚(まさたか)外野手=「34」→「7」
ともに昨年の日本シリーズで戦った選手で、中村はシリーズMVPに選ばれ、3年6億円の契約に加え、チームの先輩で名球会の古田敦也の番号を継ぐ特典を得た。永久欠番になってもおかしくない番号だけに感激したことだろう。吉田の数字は、2年連続首位打者を獲得して1億2000万円増の年俸4億円も重なってチームの看板と認知された意味を持つ。
現在の背番号は、選手の格を表わす証明といっていい。両選手が「やる気が出る」と会心の笑みを浮かべたのも分かる。両球団は背番号の付加価値を巧みに使ったともいえる契約更改劇だった。
この背番号変更で派手に活を入れた印象なのが巨人だった。
山口俊(しゅん)投手「99」→「17」 吉川尚輝(なおき)内野手「29」→「2」 秋広優人(ゆうと)内野手「68」→「55」 松原聖弥(せいや)外野手「31」→「9」
山口は完全試合投手の槙原寛己(ひろみ)、吉川は名手の広岡達朗、秋広はワールドシリーズMVPの松井秀喜、松原は昨年限りで引退した亀井義行がそれぞれ背負っていた由緒ある番号である。昨年は優勝候補とされながら3位に低迷。再建の強い意思をファンに示した原辰徳監督の決意といっていい。
番号決定「打順」「契約順」「いろは順」に「お好み」で
背番号の歴史は古く、その活用も多様性を持っている。最初に付けたのは1927年のヤンキース。打順通りに「3」ベーブ・ルース、「4」ルー・ゲーリッグなどとした。
日本では35年に米国遠征した巨人の前身となるチームが最初。そのときは漢数字だった。リーグ戦がスタートした36年は全球団が採用。決め方は様々で、打順のほか、契約した順番、いろは順など。その後、金の卵は希望の「お好み」で。
背番号の価値が認められるようになったのは永久欠番からだった。メジャーリーグがその先駆者だが、有名なのは黒人初のメジャーリーガーとなったジャッキー・ロビンソンの「42」。はじめはドジャースだけだったが、現在では「メジャーリーグの永久欠番」となり、ロビンソンがデビューした4月15日の試合は、毎年全30チームの全選手がその番号を付けてプレーする一大イベントとなっている。来日外国人選手は尊敬と憧れからこの番号を希望することが多い。
永久欠番がもっとも多いのはヤンキースの21。一けたはすべて。本塁打王のルース、連続試合出場のゲーリックをはじめ、「5」は56試合連続安打のジョー・ディマジオ、「7」は三冠王のミッキー・マントル、「9」はルースのシーズン本塁打を最初に破る61本を放ったロジャー・マリスら。最近で有名なのはデレク・ジーターの「2」。
メジャーリーグでは複数球団で永久欠番の栄誉を担った選手は少なくない。その中で珍しいのはカールトン・フィスクという有名な捕手のケース。レッドソックスで「27」。移籍したホワイトソックスではその数字を逆にした「72」がともに永久欠番となっている。
自らの活躍と成績で超一流にした「34」と「51」
入団したときは大きな番号でも、活躍すると球団がプレゼントの形で若い番号を与えることが多い。その象徴的な例が巨人の「50番トリオ」である。「50」の駒田徳広(のりひろ)、「54」の槙原、「55」の吉村禎章(さだあき)の3人で、駒田は満塁ホームランでデビューし「10」に、槙原は新人王になり「17」、吉村は主軸打者の期待から「7」。出世トリオでもあった。
対照的に最初に付けた番号を自らの活躍と成績で超一流の番号にした選手もいる。その代表は投手で400勝の金田正一(まさいち)の「34」、打者では日本で首位打者7度を獲得したイチロー(鈴木一朗)の「51」である。両選手はプロ入り前から注目された選手ではなく、ごく普通のその他の番号だった。
金田は享栄商3年生の夏に中退、17歳になってすぐプロ入り。国鉄スワローズ(ヤクルトの前身)では2番目の大きい数字だった。「番号は自分で有名にする」と言い、有言実行で“黄金の左腕”の異名を取った。
イチローは愛工大名電高からドラフト4位の入団。3年目からチームの柱になった。独特の“振り子打法”は全国に広がった。メジャーでは新人王とMVPをダブル受賞し、安打製造だけでなく、走塁も傑出、さらに守備でも肩の強さを「レーザービーム」と評され、超一流選手となった。
二人は奇しくも愛知県の出身である。
テレビドラマから選んだV9監督の番号
背番号は「スター選手の代名詞」となっている。「3」は“ミスタープロ野球”こと長嶋茂雄、「1」は“世界のホームラン王”の王貞治というように。だから同じ番号をつけていても、その番号には大選手のイメージがついていることがあり、注目度に制約がかかってしまうのが実情である。
長嶋にはエピソードがある。立大から東京六大学リーグの本塁打新記録8本を持って巨人入りしたとき「ゴールデンボーイ」と呼ばれたほどだった。現在なら間違いなく流行語大賞となる異名である。
その素質を認めた“打撃の神様”こと川上哲治が長嶋に推薦したのは「15」。これには意味があって「14」の“球聖”沢村栄治と自分の「16」の間に入れ、トリオで「永久欠番」「殿堂入り」を想定したからだった。しかし、長嶋は初の三冠王となった中島治康(はるやす)、名二塁手だった千葉茂が背負った伝統の数字を自分で選んだ。
素晴らしい成績を残しても、チームを移籍して番号が変わると、それまでの数字が薄れてしまう。
最近は監督の背番号も話題になる。日本シリーズを制したヤクルトの高津臣吾は現役時代と同じ「22」。ロッテの井口資仁(ただひと)の「6」もそう。監督といえば「30」が定番だった時代を思うと隔世の感がある。
監督になると自分で選ぶことができる。巨人の川上が管理野球で9連覇を成し遂げたときの番号は「77」。これはテレビで放映していた米国のドラマ「サンセット77」から採用したもので、見た目とは違って実は柔軟な性格だったことが分かる。
著者プロフィール
菅谷 齊(すがや・ひとし)1943年、東京・港区生まれ、法大卒。共同通信で巨人、阪神、大リーグなどを担当。黒い霧事件、長嶋茂雄監督解任、江川卓巨人入団をはじめ、金田正一の400勝、王貞治の756本塁打、江夏豊のオールスター戦9連続三振などを取材。1984年ロサンゼルス五輪特派員。スポーツデータ部長、編集委員。野球殿堂選考代表幹事を務め、三井ゴールデングラブ賞設立に尽力。大沢啓二理事長時代の社団法人・全国野球振興会(プロ野球OBクラブ)事務局長。ビジネススクールのマスコミ講師などを歴任。法政二高が甲子園夏春連覇した時の野球部員。同期に元巨人の柴田勲、後輩に日本人初の大リーガー村上雅則ら。現在は共同通信社友、東京運動記者クラブ会友、日本記者クラブ会員、東京プロ野球記者OBクラブ会長。